戦国時代

永正

読み方

えいしょう・ゑいしやう

西暦

1504年3月16日~1521年9月23日

期間

約17年6ヶ月

天皇・上皇

後柏原天皇

摂政・関白・将軍・内閣総理大臣

藤原(九条)尚経(関白)・足利義澄(将軍)

勘申者

高辻長直

改元理由

甲子革令

出典

「周易緯」の「永正其道、咸受吉化、徳弘(施)四海、能継天道」から。勘申者は式部大輔・菅原長直。

主な出来事

文亀4年2月30日・・・甲子革令に当たるため改元。
永正元年9月27日・・・立河原の戦い。扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に勝利。
永正2年・・・菅沼定則により、三河の設楽郡に野田城が築かれる。牧野古白により、三河渥美郡の北端に今橋城が築かれる。これを機に、牧野氏と戸田氏の抗争が激化。今橋城は係争の地となる。
永正3年・・・古河公方足利政氏と息子の高基が家督を巡って対立し、佐野氏、白河結城氏、小山成長、佐竹義舜、岩城由隆などが政氏を支持し、宇都宮成綱、結城政朝、小田政治などが高基を支持し、関東各地で戦闘が続発した。(永正の乱)北条早雲、相模にて検地を実施。
永正3年11月・・・今橋城の陥落。城主の牧野古白入道は敗死。
永正4年6月23日・・・細川澄之、父の管領・細川政元を自邸内にて殺害し、次いで細川澄元を追放する(永正の錯乱)。これを機に、政元の養子(澄之・澄元・高国)による家督争いに加え、大内義興を味方につけた足利義尹の将軍復職活動が盛んになる。
永正4年8月1日・・・細川澄元、養父の仇討ちという形で、三好之長と連合して同じ養子の細川澄之を敗死させ細川京兆家の家督を奪う。
永正4年8月7日・・・越後守護代長尾為景、上杉定実を擁立して守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で自害に追い込む(永正の乱)。大内義興、義尹の仲介により少弐資元と和睦。
永正5年3月17日・・・ 細川高国、澄元に対抗すべく足利義尹・大内義興の連合との合流を目論み、京都を出奔。翌月、足利義澄将軍・澄元派は大内上洛軍との対峙を危ぶみ、近江甲賀郡へ退避。
永正5年4月16日・・・ 足利義澄、近江へ逃亡し、同年7月には足利義尹(義稙)が征夷大将軍に任ぜられる。
永正5年7月1日・・・ 京都帰還を果たした足利義尹、将軍職に再任さる。並びに、高国は管領に、大内義興は管領代に任じられる。のちに義尹は義稙に改名、高国も澄元から剥奪した細川京兆家の家督継承を認められた。三河の設楽郡に長篠城が築かれる。
永正6年・・・宇都宮成綱が片角原の戦いで蘆名氏に勝利し、塩原まで進出する。
永正6年6月17日・・・如意ヶ嶽の戦い。高国・大内義興の連合軍、澄元軍を撃退。
永正7年8月8日・・・摂津・河内で大地震。四天王寺の石鳥居、藤井寺が大破。
永正7年8月27日・・・遠江で津波。浜名湖が海とつながり今切を生じた記録あり。
永正8年8年8月14日・・・足利義澄、将軍復職も叶わぬまま病死。
永正8年8月24日・・・船岡山の戦い。澄元派の一員である細川政賢の京都進攻を恐れて丹波に逃れた将軍 足利義稙が、大内義興らの援助により山城の船岡山に布陣した政賢を破って再入京。澄元は阿波へ退散する。
永正9年・・・日本初の梅毒罹患者が出現。古河公方家の内紛で婿の高基を支持する宇都宮成綱と政氏を支持する重臣・芳賀高勝が対立し、成綱は高勝の謀略によって隠居させられた後、分裂した家中を統制するために、高勝を謀殺し、芳賀氏側の重臣の城館を一斉に攻撃する。宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛へと発展し、成綱が2年かけて内紛を鎮圧。家臣団を再構成し、家中を掌握する。
永正9年8月4日・・・ 阿波に大津波。宍喰浦の民家多く流される。
永正9年10月・・・北条早雲により、相模の鎌倉郡に玉縄城が築かれる。
永正9年12月・・・因幡守護山名豊重が、弟の山名豊頼によって布勢天神山城にて殺害される。(申ノ歳崩れ)
永正10年5月21日・・・甲斐国で河内領主・穴山信懸が実子・清五郎により暗殺される。
永正11年8月23日・・・宇都宮錯乱で疲弊した下野宇都宮氏を狙い佐竹義舜・岩城由隆・上下那須氏の2万の連合軍が侵攻してくる高林の戦いで、宇都宮忠綱が宇都宮成綱・結城政朝らの援軍とともに撃退する。この勝利が政氏方に大きな影響を与え、下野宇都宮氏の躍進にも影響する。
永正13年・・・宇都宮成綱が佐竹義舜率いる佐竹氏の大軍を小川縄釣の合戦で勝利し、佐竹氏に大打撃を与える。
永正15年8月2日・・・幕府管領代の大内義興、本国へ帰還する。
永正16年・・・細川澄元、高国打倒のため阿波で再起。三好之長を中核とする軍勢で摂津に進駐。
永正17年2月・・・細川高国、仇敵の澄元軍に敗れて近江坂本へ退去。
永正17年3月7日・・・熊野で大地震。那智・熊野の堂舎破損し、民家津波に流失。
永正17年5月・・・朝倉氏・土岐氏・六角氏などの支援を得た高国軍、反撃の京都再攻(等持院の戦い)。澄元は敗れて摂津へ撤退、三好之長は自害。
永正17年6月10日・・・細川澄元、生国の阿波勝端城にて死去。これにより細川氏の管領職争いが一時沈静化する。
永正18年2月12日・・・高野山大火。寺院より出火、大塔、金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し、全山壊滅状態となる。
永正18年3月7日・・・細川高国との確執を深めた足利義稙、京都から出奔。
永正18年3月22日・・・後柏原天皇、践祚後22年を経て即位式を行う。
永正18年7月6日・・・足利義澄の遺児で備前守護代浦上村宗の庇護下にあった足利亀王丸、高国に迎えられ、入洛を果たす。
永正18年8月23日・・・大永に改元。

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