天武天皇・持統天皇の時代、7世紀後半から8世紀初頭には、中国・唐の影響を受けた文化が栄え、その文化を白鳳文化といいます。
この時代になると仏教は広く信仰されるようになり、天武天皇は伊勢神宮など神社の祭礼も重んじるようになりました。
天皇が祈願をかけた寺として最初の大官大寺や薬師寺などの大寺院が建立されました。
天武天皇が地方にも金光明経(こんこうみょうきょう)といった護国の経典を配布するなど、仏教は国の保護をうけ普及する反面、僧侶や寺院は厳しく統制されることになります。
漢字を学んだ王族や貴族が、百済から日本へ多く渡ってきたことから、朝廷を中心に漢詩文を作ることが盛んとなり、大友皇子や藤原不比等らの作品が残されています。
その影響から五・七調の長歌や短歌が発達しました。
また、万葉仮名によって歌が記述され、額田王・天智天皇・柿本人麻呂などの歌が数多く残されています。
この時代に高まった、天皇の権力などを称えるものとなっています。
美術には唐の文化の影響が強く見られ、興福寺が所蔵する旧山田寺の仏頭(金銅像)などが代表的な作品です。
また、インド・中国の様式にならった法隆寺の金堂壁画は、そのスケールの大きなところが特徴的です。
1972年に発掘された高松塚古墳の石槨内部の壁画も、この時代のものです。
埋葬用の石室には壁画が施され、その中央に木棺が納められています。
天井には星座と北極星が、四方には四神(青竜、白虎、朱雀、玄武)と人物群像が描かれていますが、四神信仰は律令国家成立時期の儀式にあたって重要とされるものでした。
1982年、山田寺の発掘調査で回廊が建築された当時のままの姿で発見されました。
その他の建築物としては、飛鳥時代の様式で建て直されたとする法隆寺の金堂・五重塔・回廊、また薬師寺東塔などがあります。
彫刻では、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)、法隆寺夢違観音像などがあります。